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サイパンの想い出に残るディナーはモビーディックレストラン

ハーマン・メルヴィルの生涯

アメリカ文学を代表する作家。

難解な作風のため、評価されなかったメルヴィルの作品は、没後30年を経て再評価の動きが起きました。

レイモンド・ウィーバ著『ハーマン・メルヴィル航海者にして神秘家』が発表され、メルヴィルの評価が上がりました。
『メルヴィル著作集』発刊や『白鯨』の映画化(グレゴリー・ペック主演)などがされました。

生前は認められることの無かった彼の作品は、今では現代アメリカ文学として評価されています。



彼の生涯は順風ではありませんでした。

1819年、ニューヨークの経済的に豊かな家庭に生まれる。
しかし11歳の時、貿易事業の失敗により実家が破たんする。その後母の実家であるオルバニーに移住。
13歳の時、父が他界し、ハーマンは学校を中退しニューヨーク州立銀行で働く。
若くして教員免許を取得して、小学校の先生となる。しかし経済的な理由で家庭が崩壊して、ランシンバークに移住する。
この地でも同様に生活が行き詰まり、1839年に兄の紹介でリヴァプール航路の商戦の船員となった。

これ以降、船員としての体験が、後々彼の作品に活かされます。

1840年、捕鯨船アクシュネット号の一船員となり、翌年ニューベッドフォードから太平洋へ捕鯨の航海に出て、南太平洋、マリアナ、サイパン、ミクロネシアを巡る。


しかし、過酷な労働環境に耐えられず、1842年7月9日、マルケサス諸島のヌクヒーバで同僚と逃走する。
しかし当時食人族とされていた先住民タイピー族に囚われる。文明と遮断された生活に彼は「過酷ではあるが人間的な生活」を感じるようになる。


この時の体験はのちに著書「タイピー」として出版される。

島を脱出してオーストラリアの捕鯨船ルーシー・アン号に救われるが、寄港地タヒチ島で船員の暴動に巻き込まれイギリス領事館に捕らわれる。10月ここも脱走しエイメオ島に逃れる。この波乱万丈な人生は、11月、アメリカ捕鯨船チャールズ・アンド・ヘンリー号に救われて翌1842年4月にハワイに着くまで続いた。

1843年8月、ホノルルにいたハーマンは、アメリカ海軍フリゲート鑑ユナイテッド・ステーツ号の水兵に採用され、翌1844年母の実家であるランシンバークに里帰りする。
旅に出ている間に母の実家は経済的に持ち直し子供たちも自立していた。

生活にゆとりが出たハーマンは小説家として執筆活動を始める。
当時は海の小説が流行しており、自身の経験をもとに1845年『タイピー』を執筆。次の年には『白鯨』を発表するなど意欲的に執筆活動を続ける。しかしその作品は全く認められず、執筆で生計を立てることが不可能となった。

様々な職を求めて活動するが、時代も悪く就業できない。困窮した生活の中でも細々と執筆をつづけて小説や詩を発表する。
南北戦争についての見聞録「Battle Pieces and Aspects of the War」はこの時の作品である。

1866年12月、ニューヨーク税関の仕事を得たが、4人の子供の中、長男マルコムのピストル自殺、自宅の火事、次男スタンウィクスの出奔(1886年サンフランシスコで他界)などの不幸が続く。
傑作『ビリー・バッド』完成後の1891年72歳で死亡


メルヴィルの残した名言


「不幸はナイフのようなものだ。刃を掴むと手を切るが、取っ手を掴めば役に立つ。」



「何か妙なことにぶつかったら、笑うことが一番かしこく手っ取り早い方法だ。どんな目に遭おうと、取っておきの気休めになる。



「驕慢(きょうまん)なるこの世の神々や提督どもに刃向かいながら、己の頑固なる自我を押し立ててゆく男にこそ、歓びはあるのだ。」



「ああ、愚かな人間よ、ノアの洪水はまだ退いてはおらぬ、優に世界の3分の2をまだ覆っているではないか。」



「海、それは自分の心をありのまま映し出す鏡だ。」



「財布は、その中に何か入っていなければボロきれと変わらない。」

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